性別適合手術と特例法の歴史―日本

埼玉医科大学での性別適合手術から20年 | gid.jp

埼玉医科大で性別適合手術が行われてからすでに20年が経ちました。それまでブルーボーイ事件により長くタブーとされてきた性転換手術(当時の表現)を可能としたのは、一人の医師の志でした。そして、それが「性同一性障害の診断と治療のガイドライン」につながり、特例法ができて性別の取扱いの変更が可能となり、社会の理解が広がる現在までの流れを作ったことは間違いありません。
それを実現した原科孝雄先生に、私たちは感謝をしてもしきれないほどの恩があります。
その原科先生から当時のことを振り返った手記をいただきましたので、ここに公開させていただきます。

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最近では特別珍しくないGIDに関する報道が始めて大々的になされたのは1995年のことであった。埼玉医科大学の倫理委員会でFTMの性転換手術の是非が審議されていることが報道され、多くの問い合わせで埼玉医大の電話交換台がパンクするほどの騒ぎであった(当時は性別適合手術という言葉は無かった)。わずかに20年前の出来事であるが、当時の事情を知らない若い人たちに、なぜ形成外科医の私が性別適合手術(SRS)を始め、いかにしてGIDのことが世に知られるようになってきたかを説明する。

この問題が長い間タブー視されてきた理由は、ブルーボーイ事件と呼ばれる不幸なできごとによる。1969年、ある産婦人科医が性転換手術を行ったことに対し、懲役2年、執行猶予3年、罰金40万円の重い判決を受けた。しかし当時性転換手術を禁止、規制する法律があったわけではない。警察、検察は、男娼(差別用語ではあるが、いわゆるオカマ、ブルーボーイ)の睾丸摘出術を行っていたその医師を検挙すべく、優生保護法(現在は母体保護法)第28条「何人も、この法律の規定による場合の外、故なく、生殖を不能にする事を目的として手術、又はレントゲン照射を行ってはならない」を準用した。しかし判決では決して性転換手術を全面的に否定したのではなく、しかるべき手順をもって行えば許されるものとしていた。その医師は大量の麻薬の横流しにもかかわっており、両者を合わせた刑が上述のようにきびしいものとなった。その結果世間では判決内容をよく知らないままに、性転換手術は大変な重罪であると誤って認識され、タブー視されるようになった。それ以来医師はこの問題を避けて通り、医療、法的サポートを必要とする当事者にとって『暗黒時代』が続き、ただ声なき声をあげて、救いを求め続けていた。

形成外科医である私の専門はマイクロサージャリーであった。その技術で26歳、新婚男性の交通事故で失ったペニスを再建したところ、子供ができ、そのことがテレビ、週刊誌に大きく報道された。
それを知った20代後半のFTM患者がペニスの形成を希望して来院したのは1992年のことであった。当時の多くの医師と同様に私も性転換症(性同一性障害)についてはまったく無知であった。しかしその患者はどこから見ても男性なのに、衣服を脱げばその体は完全に女性で、しかもどうしても自分は気持ちの上では男としか思えない、女の声がいやで焼き鳥の金串をのどに突っ込んで声を低くしたとの告白に驚愕し、そのことについて学ぶことを約束した。彼が残していった当時でも珍しかった本、『性は変えられるか?』(穴田秀雄著)には上記ブルーボーイ事件や、欧米諸国において30年以上前から行われていた性転換症の治療について詳細に解説されてあった。そして性転換手術もしかるべき手順を踏んで行われれば正当な医療行為とみ なされるだろうと記されていた。
なにごとにも後手後手のわが国において、医療面でもこのように開かれてない部分があることに対し生来の反骨精神を掻き立てられ、それでは自分がその治療を始めようと決心した。

全くのゼロから性同一性障害の治療を始めるに当たり、まず当事者の意見を聞くこととした。当時まだおおやけに顔を出していなかった虎井まさ衛氏(のちにミニコミ誌―FTM日本―を発行)には彼の紹介記事が掲載されていた雑誌社を通じて連絡をつけた。虎井氏の世話で彼を含め計5名の当事者と私の自宅で会ったのは1994年のことであった。倫理申請書にある『暗黒時代』は、その時の虎井氏の言葉であった。
性同一性障害に関する文献がまだ少なかったので1994年にオランダで行われたGIDの学会に参加した。閉鎖的なその学会の存在を知ったのは、前述のペニス再建法を英文で発表してあったのでそれを見た学会主催者が、Harashinaなる日本人形成外科医もGID治療に携わっているのではと考えて学会案内を送ってくれたもので非常にラッキーであった。この学会場では Human rights ―人権―なる言葉がさかんに飛び交っていて、性同一性障害は医療の面以上に人権、福祉の問題に深くかかわっていることを初めて強く認識した。またこの学会には精神科医、形成外科医など医療関係者、法律、福祉関係者の他に当事者が多数参加していたのが印象的であった。のちに私が第1回性同一性障害研究会(1999年)を主催した時にはそれを参考として当事者に参加を呼び掛け、今日までその伝統が受け継がれている。
初めてFTM患者に会ってから3年、十分に準備ができたと考えられた1995年5月に埼玉医科大学倫理委員会へFTM 2例の性転換手術の承認を求めて申請した。
しかし当時はそのようなことを言い出したらとんだ物笑いの種になるのではと半分恐れての決断であった。
申請翌日に精神科教授である倫理委員長に偶然会ったところ『からだの性とこころの性が違うなんて面白いことがあるんですね。』と言われた。当時は精神科医でさえ性同一性障害についてそれほど無知であった。
このことがリークしたのは、毎年行われている全国医科大学の倫理委員会委員長の会においての報告―埼玉医大でFTMに対する性転換手術の是非を議論しているーを共同通信社の記者がかぎつけ、それを全国の新聞社に発信したために全国一斉に記事となり、大きな波紋を描いた。これだけ注目を浴びた理由は、①タブー視されていた性転換手術を医科大学で行おうとしていたこと、②人権の時代でマスコミが飛びつくネタであったこと、③MTFの存在は世によく知られていたが、FTM、すなわち女性から男性への性転換はほとんど知られていなかったこと、などによると考えられる。
このニュースが流れた後に私は沢山の手紙を頂いた。そのほとんどすべてがFTMの人たちからであった。彼らは、自分は女性の体であることはよくわかっているが、どうしても気持ちの上では男性としか思えない、こんなことを考える人間は世界に俺一人しかいないんじゃないか、俺は精神病か、それとも変態か、と悩んでいたところ、新聞記事を見て自分と同じような人がいるんだ、決して俺一人ではないんだとわかっただけですっかり気持ちが楽になったと異口同音に書いてきた。当事者本人が、自分が何者であるかわからなかったほどFTMという存在は知られていなかったのである。
申請から1年後の1996年7月、埼玉医科大学倫理委員会は性転換手術を正当な医療行為と認める見解を答申した。そこに提示された付帯条件に対応するため、1996年9月、埼玉医科大学でジェンダークリニック委員会が結成された。
1997年5月、日本精神神経学会が性同一性障害の診断と治療のガイドライン「性同一性障害に関する答申と提言」を発表した。

1998年10月16日、埼玉医科大学総合医療センター(川越市)で医療行為としておおやけに認められた国内初の性別適合手術(FTM)が行われた。第1例目は奇しくも1992年にペニスの形成を希望して来院し、私にジェンダーへの道を開いたそのFTM患者であった。
この時にも報道は過熱し、われわれ手術チーム3名が手術室に向かう廊下には数十台のカメラの砲列が待ちかまえていた。そして当日夜7時のNHKテレビのトップニュースとしてその画像が流されたほどの扱いであった。

1999年3月には第1回性同一性障害研究会(GID研究会)が開催された。(2006年から学会に昇格)
2003年7月「性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律」いわゆる特例法が公布された。
2004年7月、上記特例法が施行され、当事者の戸籍上の性別変更が実際に行われ始めた。

性同一性障害に関して始めて大きく報道されたのが1995年、第1例目のSRSが行われたのが1998年、それから5年後の2003年には特例法が制定された。西欧先進諸国よりは大はばに遅れたとはいえ、すべて後手後手に回りなかなか物事が決まらないわが国において、しかも誤解、偏見の対象になりやすい性にかかわる事柄―性同一性障害―に関する法律がかくも素早く制定された理由としては、1)人権の時代、2)マスコミの後押し、3)日本人の気質、の三つが挙げられる。このことが人権に深くかかわりをもつと感じたマスコミは大挙して厚生省、法務省に押し掛けて問題の早期解決を迫った。諸外国では人種、宗教、思想、職業、性的嗜好などのゆえに一方的、かつ不条理な暴力犯罪の攻撃対象とされることがあり、これをhate crime(憎悪犯罪)という。同性愛者、性同一性障害者などの性的少数者もそのターゲットとされ、単に性同一性障害者なるがゆえに殺された事件があり、それが映画化された(Boys, Don’t Cry)。これらの人たちを治療する側の医師さえも攻撃対象になり得るが、穏やかな日本人の気質ゆえか、この問題に対する厳しい反対意見を投げかけられたことは皆無であった。また日本人がマスコミの論調にたやすく誘導される点もプラスに働いたことは否めない。

性同一性障害について声を上げたのは決して私が最初ではない。ブルーボーイ事件裁判の鑑定人であった高橋進、その弟子の塚田攻や、針間克己、阿部輝夫らの精神科医、法律家の石原明、大島俊之らがそれぞれの立場で当事者を診たり、それに関わる外国事情などを紹介していた。しかし医学や法律関係の書籍、雑誌に、『こういう人がいる、このように人権が侵害されている』と書いても世間の目を引くことはなかった。それまでタブー視されていた性転換手術を外科医が行うと言い出したのでマスコミが飛びついた。その後も倫理委員会の答申、日本精神神経科学会のガイドライン策定、第1例目の手術、特例法の制定ならびにその施行など、それぞれのイベントごとに大々的に報道され、この問題に対する世の理解度を高めた。これらの報道以前には、性転換は『趣味でやっている』、『商売のため』などが一般の認識であった。それが報道以降には『かわいそうな病気の人(虎井氏言)に変化してきた。そしてあるアンケートでは、GIDを知っている-85.2%、なんとなく聞いたことがある-14.3%、合わせて99.5%の人が認知していた(毎日新聞、2009年9月3日)。それより14年前の1995年に倫理委員会へ申請した時には精神科教授でさえ全く無知であったことと比較して雲泥の差と言うべきであろう。
もしも私が行動を起こさなかったとしてもこの人権の時代にいつまでもこの問題が放置されていたことはあり得ない。しかし私のアクションが問題解決への道を少しでも早め、それによって悩み、苦しむ人たちにわずかでも光明を与え、暗黒時代からの脱出の手助けが出来たのは無上の喜びで、医師冥利に尽きる。

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